聖書のことば

毎月聖書の一節を紹介し、希望者にハガキを郵送させて頂いています。希望の方はお問い合わせからどうぞ。

2025年9月

まだしばらく続きそうな暑さ。気候変動と戦火の鎮まらない困難な時代が続いています。喜びの時も哀しみの時も聖書にたちかえって静かに祈りましょう。「神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。」「神を見た者は、まだひとりもいない。もし、わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。」(ヨハネの第一の手紙4章) そのひとり子とはイエス・キリスト、生きるようにして下さったとはキリストの十字架の受苦によって私たちを罪の縄目から解放して下さったことを意味します。十字架はキリストの苦しみと私たちに対する愛の象徴です。神を見た者は、まだひとりもいない、その通りですね。でも、わたしたちが互いに愛し合うならば、そのとき何が起こるでしょうか。神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされる…そう聖書は教えています。わたしたちが互いに愛し合う時、神もまた私たちの中にいます!愛の冷えた時代、私たちはどこに向かっているのでしょうか。

2025年8月

八月は鎮魂と祈りの月です。「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。」(「マタイによる福音書」5章9) 二度までも世界大戦に見舞われた先の世紀。二十一世紀はその悲惨な教訓を生かして新たな平和な世界を築くはずでしたが、戦争と飢餓の惨状は今なお収まりません。「いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうち最も大いなるものは、愛である。」(「コリント人への第一の手紙」13章13)すべてのものが変転し、過ぎゆく世の中ですが、いつまでも存続するものがある、「信仰と希望と愛」だと使徒パウロは言っています。神を信じ、神を敬い畏れる心、その敬虔な感情は廃ることがないと。また、どんな困難の中でも希望を捨てないことが生きることであって、人は希望なしには生きられぬと。愛。愛を知って人は真の人にめざめ、真の人になるので、愛がなければ人は生きて行けぬと。いつまでも存続する信仰と希望と愛。なくてはならない大切な感情。でも「最も大いなるものは愛」であると。愛はすべての善の基礎。この土台を失えば人は狂気に陥り、人をあやめることにもなります。愛はすべてを結ぶ紐帯、なのですね。

2025年7月

夏がやってきました。余りに蒸し暑くて夏という美しい季節を喜べなくなるのは残念ですね。主イエスが丘の上で集まった人々に語った次のみことば。「野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかったきょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。」(「マタイによる福音書」6章28-30)丘のまわりには鳥が飛び、草の花が咲いていました。空の鳥をよく見てごらん、野の花をよく見てごらん、と主は語りかけています。野の花は自然の摂理に身をゆだねてその一生を終えます。ちいさなカタバミの花、大ぶりの野の百合の花もみな神の御手にすべてをゆだねて生育しています。「きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さる」のだから「あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか」と注意を促しています。野の花を静かに眺める心。そうです、そこに豊かな学びがあります。

2025年6月

このように行いなさいという倫理的な課題が聖書にはしばしば示されています。「喜ぶ者と共に喜び泣く者と共に泣きなさい。」(「ローマ人への手紙」12章15) 使徒パウロがローマの信徒たちに贈った、引用されることが多い言葉です。この要請に応えるのは簡単そうに見えて案外難しい、と思われます。後半の「泣く者と共に泣きなさい」は、悲しんでいる人に寄り添うことですね。同じ気持ちになってその悲しみの一端を共有することです。これとても難しいのですが、親しい人とならあるいは寄り添うことも出来そうです。はるかに難しいのは「喜ぶ者と共に喜び」、こちらです。この課題に直面すると、私たちの内なる自我、隠れたる所に潜んでいるエゴ、罪の部分がにわかに目をさまし素直な気持ちを追いやってしまいます。自我という磁場の中で人の喜びを素直には喜べない、そんな醜い感情が支配します。それが私たち人間の相場なのかもしれません。「喜ぶ者と共に喜び」、ここには自分を世界の中心に置く、主我的な利害に敏い感情はありません。人の喜びをわが喜びとし、人の悲しみをわが悲しみとする柔和な明るい心があります。そこへ来よ、そこへと聖書が呼びかけています。