聖書のことば
毎月聖書の一節を紹介し、希望者にハガキを郵送させて頂いています。希望の方はお問い合わせからどうぞ。
2026年3月
「わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。しかしまだ罪人(つみびと)であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって神はわたしたちに対する愛を示されたのである。」(ローマ書第5章6-8) キリストは十字架の極刑で亡くなりました。その死は贖罪(しょくざい=金や物を出して罪のつぐないをすること)でした。誰の罪のつぐないでしょうか。他ならぬ私たち全ての人間の罪のつぐないのためでした。しかも金品ではなく、ご自身の命を捧げて罪の縄目を解いて下さったのです。ここにキリストの愛、すなわち神の愛が示されている、とローマ書の言葉は告げています。正しい人や善人のためにキリストは死なれたのではありません。そうではなく、弱者のため、何の取り柄もない罪びとである私たちのために死なれたのです。「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」(マタイによる福音書第5章3)ここにもキリストの眼差しが示されています。心の貧しいのは実に悲しいことですが、その弱さに神の慈しみの眼差しが注がれています。
2026年2月
「物惜しみしない者は富み、人を潤す者は自分も潤される。」(「箴言」第11章25)知恵の書として親しまれている旧約聖書の「箴言」の言葉です。人にたいして寛容で親切な心を持つことが大切だ、という教えです。そうすれば、いつの日かあなたも寛容で親切なものなしを受けることになりましょう、そう言っています。ごく普通のこと、当たり前のことのように見えますが、実際にはなかなかそのように出来ないのが私たちの現実です。自分というものを誤ったかたちで所有してしまうところに、罪というもの、罪の根源があるようです。自分を大切に思うのは善きことですが、自分だけを大切に思う心は悪です。世界の中心に気が付けばいつも自分がいる。これが罪ということだと思います。「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」、そう諭し実践した主イエスを想い起して下さい。今は人が人と争い、国と国が争う、よくない時代です。寛容、親切、愛の心が冷えている時代です。「箴言」の、こういうささやかな知恵の言葉が身に沁みて感じられます。次の言葉にも励まされます。「汝のパンを水の上に投げよ、多くの日ののち、汝ふたたびこれを得ん。」(「伝道の書」第11章1)
2026年1月
新年のごあいさつを申し上げます。「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。」「この言葉は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。」「この言葉に命があった。そしてこの命は人の光であった。」(「ヨハネによる福音書」第1章1-4)
「初めに言葉があった」とはどういう意味でしょうか。言葉は意思の交通手段、人と人を結びつけるものです。初めに神の意思、御心があったということでしょう。「言葉は神であった」のです。すべての被造物は、この神の言葉=意思によって出来たのです。「この言葉に命があった」「この命は人の光であった」、ここは音楽でいえば転調、新しいニュアンスが加わります。御子イエスが神の意思により世に来たこと、神でありつつ人の子となり「人の光」となって世に来たことを伝えています。初めに言葉があり、神の御心があり、御子イエスがおられたと。そこからこう告知します。「すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。」まことの光として、主イエスがこの世に来られたこと。クリスマスの意味と新しい年に臨む希望がここに告げられています。
2025年12月
クリスマスはイエス・キリストの生誕、救い主がこの世に来られたことを祝う世界最大のお祭り。その生誕を祝うことはその死を記念することでもあります。日本の敗戦から5年、昭和25年の歳末に釈迢空(民俗学者の折口信夫)は次のような悲歌を詠んでいます。謎多い名歌として今もなお語り継がれています。
基督の 眞はだかにして血の肌(ハダヘ) 見つゝわらへり。雪の中より
磔刑(たっけい)の基督(キリスト)。血に染まって満身創痍(まんしんそうい)になっている姿を見て笑っているのは誰でしょうか。悪魔、さらにいえば私たちの内なる罪、私たちそのものでしょうか。「すべての人を照らすまことの光があって世にきた」(「ヨハネによる福音書」1章)と聖書が告知したのは、実にこの基督でした。
「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」(「マタイによる福音書」27章)と十字架上で死の間際に悲痛な叫び声をあげた基督。私達の罪の身代わりとなったその人。血を流して苦しんでいる主を見て笑っている私達、罪びとである私達、白い雪の中に佇みながら…。この構図は今もなお世界中で残念ながら拡散しています。私たちの科(とが)と救いのために死なれた方を想い起して下さい。
2025年11月
私どもの日本使徒キリスト教会はアメリカを中心にヨーロッパと日本に教会があり、日本には二つあります。会員数が少ないので、信者になるための洗礼式を挙行する機会は稀ですが、先月3年ぶりで洗礼式が行われました。アメリカの長老フランク・サウダー氏が来日し、高校一年生の伊藤智希くんが受洗しました。悔い改め・信仰の証を経て洗礼式を迎えます。智希くんがどのような人生行路を経て悔い改めに到り信仰に到ったか式の前に聞きました。長老は、初めにこう語りかけました。
きみが何をしてきたか、ではなく、主イエスがきみに何をしたか、何をして下さったのか、そのことが大切です、それを話してください
、と。多くの人々がこの言葉を心耳の奥で聞いたと思います。私たちが人生の中で何をしてきたか、罪の中に生きてきた私たちが犯した過ち、それを事細かく挙げたらきりがないことでしょう。
罪をみつめることの大切さ。それゆえ、そのような私たちにとって救い主イエスはどんな方だったのか、何を与えて下さったのか、どんな恵みと慰めと支えが主の御手からきみに来たか、それに思いを致せ、
と。
信仰とはまさにそこから始まる、
そう若者に諭したのです。
2025年10月
「すべてのこと相働きて益となるをわれらは知る」(「ローマ人への手紙」)、この言葉を折々に思う日々です。「ことごとくが益となる」と要約してこの言葉を大切にしていた年配の信者の方がいました。いろいろ辛いことや苦しいことがあるが、大きな視点(神)からみれば「ことごとくが益となる」と。この考えを支えているのは信仰、神への揺るぎない信頼ではないかと思います。現実は不条理なことが多く、惨いことが起こります。そんな時この信頼が揺らいで深淵に飲み込まれそうになります。過去にアウシュビッツや広島で起こったこと。現在、ウクライナやガザで起こっていること。正視するには余りに悲惨にすぎ、現実を前にして「すべてのこと相働きて益となるをわれらは知る」と言いうるのかどうか。言葉を失って立ちつくすしかありません。合理的に考えれば答えは否でしょう。「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」(「コリント人への第一の手紙」) 木を見て森を見ないのが私たちだとすれば、木を見て森も見ている方がおられるのです。人の判断によらず、神を待ちのぞむ心。今こそそれが求められます。
2025年9月
まだしばらく続きそうな暑さ。気候変動と戦火の鎮まらない困難な時代が続いています。喜びの時も哀しみの時も聖書にたちかえって静かに祈りましょう。「神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。」「神を見た者は、まだひとりもいない。もし、わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。」(ヨハネの第一の手紙4章) そのひとり子とはイエス・キリスト、生きるようにして下さったとはキリストの十字架の受苦によって私たちを罪の縄目から解放して下さったことを意味します。十字架はキリストの苦しみと私たちに対する愛の象徴です。神を見た者は、まだひとりもいない、その通りですね。でも、わたしたちが互いに愛し合うならば、そのとき何が起こるでしょうか。神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされる…そう聖書は教えています。わたしたちが互いに愛し合う時、神もまた私たちの中にいます!愛の冷えた時代、私たちはどこに向かっているのでしょうか。
2025年8月
八月は鎮魂と祈りの月です。「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。」(「マタイによる福音書」5章9) 二度までも世界大戦に見舞われた先の世紀。二十一世紀はその悲惨な教訓を生かして新たな平和な世界を築くはずでしたが、戦争と飢餓の惨状は今なお収まりません。「いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうち最も大いなるものは、愛である。」(「コリント人への第一の手紙」13章13)すべてのものが変転し、過ぎゆく世の中ですが、いつまでも存続するものがある、「信仰と希望と愛」だと使徒パウロは言っています。神を信じ、神を敬い畏れる心、その敬虔な感情は廃ることがないと。また、どんな困難の中でも希望を捨てないことが生きることであって、人は希望なしには生きられぬと。愛。愛を知って人は真の人にめざめ、真の人になるので、愛がなければ人は生きて行けぬと。いつまでも存続する信仰と希望と愛。なくてはならない大切な感情。でも「最も大いなるものは愛」であると。愛はすべての善の基礎。この土台を失えば人は狂気に陥り、人をあやめることにもなります。愛はすべてを結ぶ紐帯、なのですね。
2025年7月
夏がやってきました。余りに蒸し暑くて夏という美しい季節を喜べなくなるのは残念ですね。主イエスが丘の上で集まった人々に語った次のみことば。「野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。」(「マタイによる福音書」6章28-30)丘のまわりには鳥が飛び、草の花が咲いていました。空の鳥をよく見てごらん、野の花をよく見てごらん、と主は語りかけています。野の花は自然の摂理に身をゆだねてその一生を終えます。ちいさなカタバミの花、大ぶりの野の百合の花もみな神の御手にすべてをゆだねて生育しています。「きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さる」のだから「あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか」と注意を促しています。野の花を静かに眺める心。そうです、そこに豊かな学びがあります。
2025年6月
このように行いなさいという倫理的な課題が聖書にはしばしば示されています。「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。」(「ローマ人への手紙」12章15) 使徒パウロがローマの信徒たちに贈った、引用されることが多い言葉です。この要請に応えるのは簡単そうに見えて案外難しい、と思われます。後半の「泣く者と共に泣きなさい」は、悲しんでいる人に寄り添うことですね。同じ気持ちになってその悲しみの一端を共有することです。これとても難しいのですが、親しい人とならあるいは寄り添うことも出来そうです。はるかに難しいのは「喜ぶ者と共に喜び」、こちらです。この課題に直面すると、私たちの内なる自我、隠れたる所に潜んでいるエゴ、罪の部分がにわかに目をさまし素直な気持ちを追いやってしまいます。自我という磁場の中で人の喜びを素直には喜べない、そんな醜い感情が支配します。それが私たち人間の相場なのかもしれません。「喜ぶ者と共に喜び」、ここには自分を世界の中心に置く、主我的な利害に敏い感情はありません。人の喜びをわが喜びとし、人の悲しみをわが悲しみとする柔和な明るい心があります。そこへ来よ、そこへと聖書が呼びかけています。


