現代技術の進歩と「人を活かす霊」に生きる信仰 9月13日 牧師 梅村観

  1. 2026年9月13日の礼拝では、創世記11章の「バベルの塔」の物語を基に、技術の進歩の中で神を見失う人間の傲慢さに警鐘が鳴らされました。技術は神からの恵みですが、それに依存し自分の「名をあげよう」とするとき、私たちは神への反逆という過ちを繰り返す危険があります。
  2. バベルの塔の物語では、人々はレンガとアスファルトという新技術を用いて天に届く塔を建てようとしました。これは神の「地に満ちて広がりなさい」という命令に背き、自分たちの力で団結し、神に頼らず生きようとする人間の傲慢さの表れでした。
  3. 神は人々の傲慢な計画を憂慮し、彼らが制御不能に陥るのを防ぐため、天から「下って行って」言葉を乱し、全地に散らされました。この教訓は、人間が自律的な秩序を築こうとする高慢が、結果的に混乱と分裂を招くことを示しています。
  4. 現代のインターネットやAIの急速な発展は、バベルの時代の技術革新にも匹敵します。世界が「一つの言葉」で繋がったかのように見えますが、情報の統一は必ずしも心の一致や信仰の成長を保証するものではなく、新たな難題を生む可能性も指摘されました。
  5. 私たちはAIなどの最新技術をユートピア創造の手段と信じ、それに依存するなら、技術を「神」として崇める危険があります。技術はあくまで「道具」であり、救いではありません。私たちの人生の土台は、人間が作ったものではなく、揺るぐことのないイエス・キリストという「隅のかしら石」であるべきです。
  6. 一方で、技術は福音を伝え、神の愛を分かち合うために用いるべき力でもあります。バベルで乱された言葉の壁を、翻訳技術などが乗り越えさせます。この力を神の栄光のために賢く用いることが、現代の私たちには求められています。
  7. 説教はヨハネの福音書8章の「姦淫の女」の場面にも触れました。人々が律法という「文字」で女性を裁こうとしたのに対し、イエスは「罪のない者がまず石を投げなさい」と語り、裁きが神の領域であることを示されました。
  8. イエスの「わたしもあなたを罰しない。今後はもう罪を犯さないように」という言葉は、裁きよりも赦しと悔い改めへの招きという福音の核心です。これは、罪を定める「文字」(律法)は人を殺すが、赦しと愛をもたらす「霊」は人を生かすという新しい契約を示しています。(コリント人への第二の手紙 3章6節)
  9. 現代社会は、法律や規則という「文字」で外面的な行動を規制しがちですが、人の心の内にある差別意識や憎しみは取り除けません。私たちは批判し合う風潮に流されず、イエスのように愛と赦しをもって他者と向き合う「霊」に生きるべきです。
  10. 技術と法に依存する社会の中で、私たちの拠り所はイエスの赦しと聖霊の導きです。どんな時代の変化や困難の中にあっても、この信仰こそが真の平安と希望を与えてくれます。技術に感謝しつつも、常に神を第一とし、人を活かす「霊」によって歩むことが大切です。